建築士山形 2017 No.97 architect of yamagata
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 この年(71歳)になると、これまでの人生を振り返り、自分史みたいなものを書いてみたくなりました。お付き合いください。自己紹介生まれ 昭和20年 3月 1日(71歳)東京都葛飾区本田渋江町(生まれて10日後下町大空襲)昭和23年母方の町内会(天童市乱川)に住み着く。昭和38年3月山形工業高校建築科を中程度の成績で卒業。(同級生に市村孝夫君、中村勝義君、山口修君、吉田晃伸君など)昭和38年4月松井建設入社(先輩に社寺建築部に鹿野克己さん他3名ほど在籍、私も社寺建築の勉強しておけば良かった)松井建設での仕事。肩書は現場監督ですが、若い馬力のある体のいい人夫でした。印象に残った仕事。佐藤武夫さん設計の、城南信用金庫馬込支店です。落成式に先生が見えられ、私たちに慰労の言葉をかけていただき感激しました。又、この金庫のカウンターは、天童木工の成型合板製でした。東海道新幹線がこの近くを走っており、現場からよく見ていました。苦労したこと。色々ありますが、青山五丁目の公団住宅、高さ2mのコンクリト擁壁現場打ち(13㎥)を先輩と二人で練鉄板、練スコで手練り、朝から始めて終わったのは勿論夕方でした。皆さんは信じられないでしょう。今思うと馬鹿なことをよくやったと思う。昭和41年7月 松井建設退社(父と5年の約束の出稼ぎでしたが、父の大けがが原因で短縮)現在は 株式会社イイダ設計 代表取締役(師匠は明治45年生まれの故飯田鉄夫氏)昭和41年9月 当時の天童連合建築設計事務所(飯田鉄夫氏の紹介)入社。事務所所在地・老野森水戸部俊男さん宅の2階。所員・飯田鉄夫・伊藤次男・渡辺弘・柴崎哲雄・中野慶子各氏の5名。現場監督から、設計事務所の所員に変身し今年で50年が過ぎました。当時のことを思い出しながら、書き綴ってまいります。昭和41年10月 天童市農協本所新築工事の監理業務。(設計・東京・農協建築設計センター)初仕事は、RC3階建ての設計者としての監理業務でした。コンクリート打設はまだ現場練りで生コンは未使用。ある日現場で女人夫から「設計屋さんバケツとってけろ」と言われ、東京と山形との格差に驚いた。田舎に帰ってきた実感、安堵感を味わいほっとした。これまでの立場が逆になり、水を得た魚のように楽しく仕事ができました。昭和42年2月 天童市五日町の木村医院新築工事の設計・監理を担当RC2階建ての設計は初めてのことで、戸惑いながらなんとか図面を作成しました。建築物は施工者が設計図に基づいて施工図を作成するのが通例ですが、施工者の寒河江建設の現場監督、山工先輩の阿部幸敏さんに、施工図が一枚も作成されないのはなぜかと問い合わせた処、お前の書いた設計図が施工図になっているといわれ、恥ずかしかった。(開口部の躯体寸法まで書いてあった) 50年史の2年分を書きました。あと48年分残っています。遺言のつもりで、言いたいこと、教えたいことを書き残してみようと思い始めましたが、「あの世」に逝った人達からそんな時間があるなら、言いにくいこと、先人の知恵を若い人たちに教えてから来るように言われた様な気がしたのでこの辺でやめます。あと48年分あります。(続く)村山征彦 MURAYAMA masahiko From天童支部建築設計50年の自分史。Page18TitleNameNumber会員だよりMURAYAMA masahiko8/11

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