東北コンクリート製品協会会報No.6 2017年3月15日発行
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― 33 ―て白紙のところに書いてみたんです。数字をあげろと書いているので、わたし野球選手として失敗しましたので次は指導者だと思ったんです、なのでこう書きました。28歳で甲子園に出ると書いたんです。わくわくするような目標を書けって書いてあったんで、最年少監督で出るって書いたんです。甲子園に出たら母校も甲子園に出たことないから、黒沢尻北高校で講演するって書いたんです。高校で講演するんだったら中学校でもしなきゃいけないと思って、江釣子中学校でも講演するって書いたんです。20歳で何にも決まっていないときです。それこそ花巻東に行くことすら決まっていません。あとから思い出してみたんですけどびっくりしました。わたし初めて甲子園に出たとき28歳だったんです。私の誕生日は7月27日なんです。決勝は25日ごろなので、勝って初めて甲子園が決まった時は28歳だったんですが、大会は8月なので、甲子園に出たときは29歳になってたんです。目標が達成できたような、できなかったようなイライラした気分でした。最年少で甲子園に出る夢はどうなったかと思って、出場校の監督の載っている雑誌を買って全部の監督をチェックしました。そしたら東北高校の前監督の五十嵐監督って同級生だったんです。彼は2月生まれで雑誌を見ると28歳で私は29歳でした。また、夢をかなえてようなかなえなかったような複雑な気持ちだったのですが、でもまあタイ記録だと思ってます。20歳の時に講演するようになるとは思いもしませんでした。あの中学時代の私が教職員600人相手に講演したり、県議会の先生方に話をしたり、そんなことなんか想像もしていなかったんです。黒沢尻北高校で講演って書きました。準優勝した後、すごく講演依頼が来て、校長先生にうちの生徒にもしゃべらないのに他の高校ではしゃべりませんからねって言ってたんです。でも、黒沢尻北高校から来たときはやらせて下さいとお願いしてました。案の定、黒沢尻北高から来たんです。ああ来たーと思って行きました。そして手帳を見せたんです。第一声がみんな聞いてくれ、このスケジュール12年前から決まってたって言ったんです。ここに来ること、おれ決めていたと。校長先生が学校に電話番号回したんだけど、回させたのは俺だって言ったんです。もちろん黒沢尻北高校でもやりました。きれいごとはいいません、夢って絶対達成できないって生徒には行ってます。ただですね、具体的にきちっと立てた、設定の仕方がわかって立てたときは、必ず近づきます。達成できないこともあります。それから飛びぬけて上まで行っちゃうことがあります。企業の人たちを相手に2,000人もの人の前で講演するなんて、そんなこと頭にも描かなったんです。ぶっ飛んでしまいました。雄星が入ってきた時に話したんです。おい雄星おまえなドラフト1位じゃなかったら、プロに行かせないぞって言ったんです。2位以下だったら大学って言ったんです。そしたらはいって言ってまして、2年生になったら少し危なくなってきたので、おい雄星おまえ複数球団から1位指名来なかったら行かせないって言ったんです。はいって。数字あげるの大事なので、おい何球団にす平成29年願い共存共栄

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