建築士山形 2016 No.96 architect of yamagata
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ある。ところが、翌大正十五年、人のいい俊三は、愛国青年が起こした請願令違反事件に巻き込まれて、またも代議士の資格を失う。その年、大石田で小作運動についての演説会で風邪を拗らせ、肺炎になり、山形の済生館病院に入院する。入院中に俊三は、雪による急激な温度低下により入院していた多くの乳幼児の容態が悪化して亡くなるのを見て、これは寒さと栄養状態、保健衛生が悪いためであり、その根源は「雪害」ではないのかと、また、急病人が入院しても手遅れになり、亡くなってしまう者が後を絶たない有様を目の当たりにして「それは、長い冬期間の雪國の降雪によるものだ!」と叫んだとされている。ここから、雪國の人たちが背負っている不利な条件を支援する法令上の施策がないことが問題で、政治的に解決するのが、自分の使命であると決意して、「雪害救済運動」を提唱することになった。昭和二年に山形を中心に長谷川伸、平山蘆江(あしえ)とともに雪害の実態調査を実施する。昭和三年(1928年)第16回総選挙で当選《3回目》する。昭和四年(1928年)第56回帝国議会で「雪害調査機関設置に関する建議案」を提出し、可決され、予備金支出をもって調査会設置を決議する。昭和五年(1930年)雪害建白書を元老・総理大臣・内大臣らに配布する。この年雪害救済のための全国行脚をはじめる。同年十二月新庄の五十嵐源三郎らと最上郡雪害救済期成聯盟を結成する。昭和七年(1932年)雪害第二建白書を識者に配布する。第18回総選挙で当選《4回目》する。第62回帝国議会で「雪國日本の根本対策建議案」を提出し、可決される。第63回帝国議会で義務教育費公庫負担法施行勅令中に〝雪害″の文字を加えることが可決し、東北全市町村を特市町村として交付金を増加すること、 明治十三年(1880年)七月十四日に松岡俊三(まつおか としぞう)は、北村山郡楯岡町(現村山市楯岡)にて農家の父村川伊平(利助)と母りねとの間に長男として生まれ、姉二人、弟一人、妹二人の六人兄弟であった。明治二十二年(1889年)、九歳となった俊三は、両親に勧められ、隣家の松岡酒造に年季奉公したが、十六歳の時、一族で浄土宗報恩寺の住職松岡白雄の養子となって僧籍に入り、明治30年(1897年)、十七歳の時に東京の芝増上寺の道重真教大僧正の弟子となる。明治33年浄土宗大学中退。明治37年日露戦争に従軍する。明治40年都新聞(現東京新聞)に政治記者として入社する。明治41年日本法律学校を中退する。明治四十三年東京市の依頼で自治行政調査のため米・英・仏・独・露を視察する。大正二年(1917年)、三十三歳で栃木県鹿沼町の大呉服問屋の娘の村岡クニ(國子)と結婚する。大正六年(1917年)妻の実家のある栃木県第四区から第十三回総選挙に立候補するが落選する。大正八年三十九歳の時に都新聞社の副社長に抜擢される。 肩書きを就けた俊三は大正九年第十四回総選挙で栃木県第4区から立候補して、日光を国立公園にするということを公約に掲げ、見事に当選《1回目》する。大正十年(1921年)四十一歳で俊三は日本の将来を付けたとされる、ワシントン軍縮会議に立憲政友会の代表として出席する。大正十三年(1924年)護憲運動による解散総選挙が行われ、俊三も立候補するが、落選の悲運に見舞われる。再起をかけて、楯岡大槇出身の山形県議会議長の高橋勝兵衛が推薦して、大正十四年(1925年)山形県第六区から政友会公認で細梅三郎議員の辞職による第15回総選挙補欠選挙に立候補して、圧倒的な差で当選《2回目》するので渡邉道明 WATANABE michiaki From山形支部「雪害救済運動提唱者」松岡代議士について。CContribution寄稿Page23-25Page23TitleNameNumber寄稿1/3WATANABE michiaki

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