建築士山形 2016 No.96 architect of yamagata
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 日本人の特徴なのか、ちょっとこの前までは2020年の東京オリンピック・パラリンピックの新国立競技場の口にアワをとばして、新聞・テレビで話題になっていたが、11月末現在全く静かである。文科大臣が現行案では予算がふくれあがっているので縮小する方針で検討していると言った直後、突然首相の全面見なおしの一声でザハ・ハディドの設計はふっとんでしまった。 その前から建築家槇文彦氏の「新国立競技場案は神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」は非常に貴重な論文であった。他の建築家は何回か神宮外苑についての景観のシンポジウムを開いたが、残念ながららちがあかずに終わったようだ。世論はもっぱら予算オーバーのみが問題になった。 ここで私は日本の新国立競技場はこれ位にして超予算オーバーの建築の話をしたい。それはシドニーオペラハウスについてである。急にシドニーのことが出るのかといぶかることと思う。その金額が予算の14倍だそうだ。皆様このことを今までご存知だったろうか。私はあの独創的で優美な姿を現地で一度見たいと数年前訪れてみた。私のオペラハウスの印象は一口で言うとなにか別の建築を見た思いだった。原因は設計者ヨルン・ウットソンの一枚の立面図だった。それはシドニー湾に浮かぶヨットの帆や貝がらを思わせるデザインがずっと頭にあった。それがシドニーの現場に行ったら突然4次元の形で目に飛びこんできた。またこの建築は周囲が海にかこまれているので360度の角度からいろいろな姿を見せてくれる。それが私の頭の中のオペラハウスとは全く違っていた。訪れた記念にオペラハウスの売店で一冊パンフレットを買った。「シドニーオペラハウス」のタイトルで出版は「シドニーブルコ社」内味は文章と写真の12ページの薄いものであった。しかし、このパンフレットをホテルで読んで全く知らないことだらけでびっくりした。そのことはオペラハウスの生いたちや数々のドラマが書いてあった。それをここで是非紹介したい。まずオペラハウスの生いたちから始めよう。最初の構想はその当時いい音楽堂がなかったので市民の為の音楽や劇が出来る「文化センター」を考えていた。シドニーオーケストラの指揮者であるユージン・グーセンスが先頭に立ち音楽堂を考えていた。設計については国内外をとわず応募出来るオープンコンペとし建設地はシドニー湾の美しい岬とした。コンペは世界中から233案集まり日本からも1案あったという。その結果、デンマークのヨルン・ウットソンが選ばれた。彼の斬新なデザインに審査員一同は心を動かされたものの果たして建築出来るだろうかという心配もあったらしい。審査員のなかにはシェル構造の屋根が実際建築可能なのか不安があった。当初予算は政府は750万ドルとしたが、間もなく不足してオペラハウス建築財政補助金として大型の宝くじを発行した。特にオーストラリアの国民の多数は宝くじが大好きと聞く。この時から「文化センター」が「オペラハウス」に呼ばれ始めた。しかし、この宝くじの一等当選者夫婦の息子が誘拐され犯人逮捕の寸前に殺されてしまう悲劇に見まわれてしまう。それに工事が着工されてからいろいろ問題や課題が出てきた。当初案ではオペラもオーケストラも同じスペースで利用出来るように計画していたが、そこに音響の問題が出てきた。工事の遅れと予算のオーバーが続いたことで政府は設計者に圧力をかけはじめた。それに対して設計者はいろいろ反論したが、その態度を政府は辞任と受けとめた。その結果、1966年3月設計者は途中で失意のうちにデンマークに帰国してしまう。ウットソンの後を引継いだロンドンの建築家は多くの課題を処理しきれなかった。講堂スペースが音楽用になり、オペラスペースはうんと小さくなった。この変更により大規模なオペラやバレエの公演は不可能になった。最終的にはオペラ部門は当初3500席が1550席、古典演劇シアター500席、現代劇シアター400席になってしまった。1973年に完成したが実に14年の工期を必要とした。予算の大巾なオーバーと工期の延長はちょっと考えられない。外国でもあまり聞いたことがない。 でも、2007年、20世紀を代表とする近代建築として世界文化遺産に認定された。そして現在多くの見学者を集めている。この建築はシドニーのシンボル、それ以上オーストラリアのシンボルになったのかもしれない。会田征彦 AITA yukihiko From山形支部予算オーバー14倍のシドニーオペラハウス。Page17TitleNameNumber会員だより7/7AITA yukihiko

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