建築士山形 2015 No.95 architect of yamagata
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上の院々扉を閉じて 物音聞こえず 岸を巡めぐり 岩を這はひて 仏閣を拝し佳か景けい寂せき寞ばくとして心澄すみ行くのみ覚おぼゆ 『閑しづかさや岩に染しみ入る蝉の声』  芭蕉」とある 本文の中の「清閑」「重厳」「苔滑」「寂寞」など中国の「寒山詩」の中の語彙の踏襲は、芭蕉が「寒山詩」の世界を眼前に見る思いを覚えたからであろう。 この俳句の初案は「山寺や石にしみつく蝉の声」で、その改案が「さびしさや岩にしみこむ蝉の声」であり、芭蕉は旅の5年後の元禄7年まで推すい敲こうに推すい敲こうを重ねて「閑かさや岩にしみいる蝉の声」という芸術的な句を完成させたのである。 芭蕉が伊賀上野で17歳から近習役として仕えた3歳年上の籐堂良忠(俳号・蝉せん吟ぎん)が25歳の若さで亡くなってから、元禄2年は23回忌の追善供養祭の年に当たり、山寺のこの句は、俳諧に目を開かせてくれた蝉吟への追悼句であり、死者の霊魂漂泊の霊山なればこそ、生まれた名吟なのである。 芭蕉が聴いた蝉は何という蝉かで大正14年に歌人・齊藤茂吉が蝉時雨の喧やかましさの中での静寂を芭蕉が感じえたのは強い鳴声の油蝉であると云ったのに対して、独文学者・小宮豊隆は「閑かさや岩に染み入る」と感じられるのは威勢のよい油蝉には相応しくなく、森閑とした中に鳴く、声が細くて澄んだ声のニイニイ蝉(麦の刈入の6月中旬から鳴く麦蝉)であるといい、2年越しの論争を繰り拡げたが、茂吉が行った実地調査の結果、新暦の7月13日には油蝉が鳴かないことが解かり滅多に負けた事がない茂吉翁が、残念ながら負けを認めた。 山寺は天台宗の寺院である一方で、死後に魂の帰るべき山として庶民信仰・先祖供養の歯骨を奥之院納骨堂に納め、慰霊のため卒そ塔と婆ばや碑を建て、また、後生車(板や角材の卒塔婆を刳り抜き木や鉄の輪っぱを、嵌め込みその車輪を回すことで経文を読むのと同じ功徳を為すというもの)が数多く見られる。 登山口から76段の石段を登り切ると正面に根本中堂があるが、中堂のご本尊の木造薬師如来座像は、一おととし昨年の平成25年4月27日から5月31日までの間、50年に一度だけの御開帳が行われ、全国から30万人を超える参拝者で賑わった。 立石寺の存立は、空間的には北側の鵜沢山周辺の山々を複合した形で基盤を形成し、時間的には原始以来の在地信仰を継承しつつ、現在も信仰を集めているのである。改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。焼き討ちの際に、比叡山延暦寺から分燈されていた不滅の法燈も消滅し、再度、分燈することとなるが、元亀2年(1571年)の信長の比叡山焼き討ち後の再建時には、立石寺側から逆に奉還されることとなった。立石寺は山形城主の最上義守の母・春しゅん還げん芳ほう公こう尼には、荒廃した堂舎の再興に努め、その孫にあたる最上義光も立石寺を援助し、分限帳によると寺領1420石が与えられていた。その後、再び堂舎が破損したので享保年間(1716~1735年)当寺53世寛雄が諸堂の修理再建をした。その後、当寺65世情田が私財1800両を投じて、参道及び諸堂を修改築し、面目を一新し、今日に至っている。 最上氏改易ののち元和8年(1622年)9月に「東国の押え」として譜代大名の鳥居忠政が22万石で入封した。鳥居氏の主な事業は、城下町の一部改造と馬見ヶ崎川の流路変更そして元和検地である。平安時代の仁和2年(886年)11月11日に最上郡は、北の村山郡と南の最上郡の二郡に分割されたが、両郡の位置関係は、現在とは逆であったが、鳥居氏は、検地と同時に、妹婿で真室城主の戸沢政盛(後の新庄城主)と取り決め、最上藩の「最上」を遠ざけるために、最上郡と村山郡とが入れ替えられ、現在のように南が村山郡、北が最上郡という配置になったのである。 忠政は山形に入封して6年後、寛永5年(1628年)9月に亡くなった。鳥居氏の民政について、後の山形案内書の一つである『山形風流松木枕』には、忠政の死は山寺の呪じゅ詛そによって祈り殺されたものであると記している。 これは鳥居氏が、領地時代からその後も、山寺を圧迫したことへの反感を表したものであった。嫡子の忠恒は、山寺は禁令である殺生を行い、銘木を切り、寺地を荒らすなどの種々の行為を、幕府に訴えたが、これに対する幕府の対応は特になく、忠恒は後に山寺一山と和解し、父忠政の供養塔を山寺の境内に建立したが、忠恒は、33歳で死去し、鳥居氏は、改易となり、3万石で信濃高遠城に移された。 俳聖・松尾芭蕉は山寺に行く予定がなかったが、尾花沢の紅花大尽の三代目鈴木八右衛門 (俳号・清風)の勧めで元禄2年(1689年)旧暦5月27日(新暦7月13日)に楯岡まで清風が用意してくれた馬に乗って、その後も馬を乗り継いで山寺に向かった。芭蕉は、尾花沢周辺では紅花は栽培されていないことを知り、咲いている所を見たいがために山寺に行ったのである。天童の下萩野戸村の石倉地区で『眉掃きを俤おもかげにして紅べに粉の花』と詠んだ。石倉集落の高台にこの句碑が建っている。なお、眉掃きとは、女が白おしろい粉を塗った後に眉に付いた白粉を取るために、細い竹の筒に白兎の毛を植え付けた刷毛を眉掃きといい、これを紅花に見立て、ある女性を思い浮かべながら詠んだのであろう。門人曽良の随行日記によると未ひつじの下刻とあるから、午後3時頃に山寺に着いた。「奥の細道」の本文には「山形領に立石寺と云う山寺あり 慈覚大使の開基にして 殊ことに清閑の地也 一見すべきよし人々の勧すすむるに依りて 尾花沢よりとって返し その間7里ばかり也 日いまだ暮れず 麓の坊に宿かり置きて 山上の堂にのぼる 岩に巌いわほを重ねて山とし 松柏年とし旧ふり 土石老いて苔滑すべらかに 岩山寺全景根本中堂Page26TitleNameNumber山形の歴史WATANABE michiaki2/2

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