建築士山形 2015 No.95 architect of yamagata
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24年にかけて入定窟の山形県史跡名勝天然記念物調査委員会の学術調査で、金箔押しの木棺と人骨5体分の中に非火葬で頭部の無い1体が円仁像と思われ、木彫像の頭部が発見された。この木彫像の頭部については目鼻立ちなどの特徴から円仁像であることは認められ作風からも9世紀頃の制作であると認められている。 鎌倉時代には幕府の保護と統制を受け、関東護祈祷所となり寺は栄えたが後に兵火により焼失し、13世紀中頃には幕府の政策により禅宗に改宗になったが、延文元年(1356年)斯波兼頼が奥州探題として山形に入部した後、立石寺が山形の鬼門(北東)に当たるので山形の守護神として、兼頼により再建され天台宗に戻った。この時、再建された根本中堂は銅板葺き(元は杮こけら葺き)入母屋造り、唐様建築で、間口5間、奥行5間、前面に1間の向ごはい拝が付いていて、内部の礼拝空間の外げ陣じんと仏の空間の内陣の間は格子戸で厳格に仕切られ、外陣は前後に弓なりに湾曲した虹こう梁りょうを架けて柱を省略している。使用している木材の6割がブナ材である建築物では日本最古といわれ、国指定の重要文化財になっていて、一時禅宗に改宗していた時期に建立されたため、天台宗の寺院の平面構成では内陣を外陣より下げて、三昧土間とし、その上に須彌壇を築き、その中央の石壇の宮く殿でんに仏像を安置する。須彌壇の周りに行ぎょう道どう空間を設け、内陣を密閉空間としている。一方外陣は開放的で出入口や窓を前面に設ける。周り回廊は外陣側にのみ設け、内陣側には無いなどの形式が採られるが、本堂ではこれらの要素が見られず、 正面以外は横羽目の板張りで開口部が少なく、正面の双折れ桟唐戸の建具や簡素な出で三みつ斗どの組物に禅宗の様式が見られ、東北地方の中世における中規模密教本堂の典型といえる。また、内陣には大師作と伝わる薬師如来を本尊とし、幾多の仏像が安置され、また、印度、中国、朝鮮を経て日本へ入って来た三国伝来の不滅の法灯が1100年の間、明々と後の世までも清浄で明らけく、康寧和楽の道標のように尊く輝いている。  大永元年(1521年)天童頼長の兵火を受けて一山焼失した。頼長は斯波兼頼の孫の斯波(天童)頼直を祖とする天童家の末裔である。永正17年(1520年)に頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦うが、この際立石寺が伊達側に加勢したために、頼長の怒りを買い、翌年焼き討ちを受けたものである。なお、現存する根本中堂は後世の 山形県に最初に伝わった仏教は、玄げん奘じょう三蔵の弟子・慈恩大師が開祖の法ほっ相そう宗しゅうといわれている。村山地方の古こ刹さつには法相宗の行基が開いたと伝える寺が多い。やがて天台宗・真言宗が進展してきて、法相宗などの古刹も天台宗または真言宗に改宗した。一般的には東部の奥羽山脈側には天台宗が多く西部の出羽丘陵側には真言宗が多い。山形県には慈覚大師円仁の開祖と伝える天台宗の古刹が散見される。 山形市山寺の立石寺は、正式には宝ほう殊じゅ山さん阿あ所そ川かわ院いん立りっしゃくじ石寺といい、創建について寺伝では、貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で法名・円仁(慈覚大師は没後に功績により清和天皇から授かった日本で初めての大師号である)が開山したとされている。立石寺文の「立石寺記録」には、「開山」を円仁、「開祖」を安あん慧えと位置づけており、子院の安養院は心能が、千手院の山王院は実玄が開いたとされている。安慧は円仁の跡を継いで天台座主となった僧であり、心能と実玄は円仁の東とう国ごく巡じゅんしゃく錫に同行した弟子である。貞観2年は円仁が67歳の高齢に加え、天台座主の高位にあって多忙をきわめ、この時期、出羽まで下向して立石寺を建立したとは考えがたく、円仁の意を受けた安慧らによって9世紀の半ば頃から徐々に寺観位の両面から整えられたとみるのが穏当である。 山寺は全山約3万年前第3紀層の凝灰岩からなり、風化と浸食によって岩壁は千態万様の穴が開けられ、突とっ兀こつとした峰々に一つ一つの堂塔が配されている絶景観は、将に天上仙閣の趣である。このような怪異の地から、立石寺の成立は奇岩怪岩に自然発生的に芽生えたであろう在地信仰の基盤の上に、天台宗が教線を拡大する中で浸透してきたと思われる。 根本中堂の西側の山門をくぐると、これより987段(実測値)の石段を登れば奥之院(如にょ法ほう堂)に辿り着く。奥之院を下って西へ進むと大師の木造の尊像が安置されている開山堂がある。開山堂の真下に円仁の遺骸を安置する入にゅう定じょう窟くつがある。史実として、円仁は貞観6年(864年)に比叡山で没しており、立石寺に実際に遺骸が移されたという確証はないが、入定窟の上に立てられた天養元年(1144年)の「如法経所碑」が現存し、そこには「大師の護持を仰いで法華経を埋納する」という趣旨が書かれていて、この時代に円仁がこの地で入定しているとする伝承が成立していたことがわかる。昭和23年から渡邉道明 WATANABE michiaki From山形支部山寺立石寺の仏教文化について。YYamagata history山形の歴史Page25-26Page25TitleNameNumber山形の歴史1/2WATANABE michiaki

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