建築士山形 2015 No.95 architect of yamagata
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私事ですが50歳になりました。ここらで一旦立ち止まって振り返ってみようと思います。 15歳・高校は鶴岡工業高校の建築科へ。理由は描くということが好き、得意だったから。 18歳・親へ感謝、大学へ上京。ここで建築の中でも「設計」の道に職業として憧れる。 22歳・卒業論文で前川国男、丹下健三の戦中戦後の事務所スタッフへの調査、取材。 学生時代は4年間の全てを「建築」に費やす。同時にいずれは必ず「地元」への思い。 22歳・山形に帰る前に世界を旅すると宣言、就職せず卒業。資金稼ぎのアルバイトのハシゴ。 そんな中でも、設計事務所の作業は寝なくてもいいぐらい楽しい。でも金は貯まらない。 23歳・バイトからの採用で事務所勤務。バブルを経験しつつ、建築家としての修行を6年。 30歳・地元にUターン。資格取得し独立開業をする。何のあても無い。現場での施工図バイト。 31歳・地元と東京の違いを埋める必要有り。縁あって山形市内の設計事務所へ4年勤務。 35歳・再独立、二度目の看板を掲げました。「設計の道=自分の事務所を構える」が学生時代に 設計を志してからの前提でした。丁度、西暦も2000年でした。 ここからが私の設計の始まりとなるのでしょう。 これまで、かれこれ15年で住宅系・店舗系で100件近くの案件を設計してきたようです。 私の勤務職歴からすれば、住宅系設計が主舞台になるとは思っていませんでした。住宅の設計にエネルギーをかけてこなかった地元の実状からすれば、ここが設計の場の可能性、ニッチだったのかも知れません。独立直後に地元の建築士会役員の方から「君、住宅の設計でやっていくの?食って行けないぞ…」との冷ややかなアドバイスを戴き、逆にとっても燃えました。 この頃からテレビ番組ビフォーアフターが始まり、建築家、設計が一気に一般化してきました。 また、インターネット、ホームページの普及で私のような個人事務所が容易に自己表現出来る環境が生まれてきました。この2つが住宅設計の分野を広げてくれたと感じます。 独立後も年表にしようかと思いましたが、私の実態は15年もの間ズルズル、バタバタの日々のくり返しです。スマートにはいきません。田舎において、「設計」を特別なものとはせず、誰でも活用できる選択肢にしようと活動をしているつもりです。区切りは引退廃業の時なのでしょう。 今回は50歳の途中記録としての雑感を残します。 最近ふと鶴岡を見渡せば、我々以降に事務所の看板を掲げる人材がおりません。支部においても建築士会青年部は構成員がほぼ皆無の状態です。若手スタッフを雇用している設計事務所も限られております。職人不足への危機感は業界の深刻な問題として語られるが、若手設計者の不在は職人問題と異なり、深刻な実害がないことなのです。受け皿となる業務の量が無く求人そのものが無いのです。残念だけれどもそれが実態です。当地での設計は土着の優位性を実力で示せていません。 これには私自身、自戒があります。これまで数名の若い人材との縁があったが、育てあげるということが出来ていません。待遇などは昨今いわれるブラック企業と呼ばれても仕方ない有様でした。 この世代としての今後の私の役目は何でしょう。これまでは「設計」だったのですが今後は「地元」ということを掲げていきます。特別扱いではなく、地元の設計の新たな優位な存在価値を造っていくことを、今後の目標にしてみたいと思います。具体策は未だ白紙です。これから設計します。小野寺浩 ONODERA kou From鶴岡田川支部「設計事務所」の行方。Page14TitleNameNumber会員だより3/9ONODERA kou
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