建築士山形 architect of yamagata 2014 No.94
21/38
までは実行している。これらを実現させるために県の幹部職員に鹿児島士族出身者を登用しており、郡長にも鹿児島や熊本出身者が登用されていて、これらの要職についた藩閥出身が県政・郡政の中枢を掌握し、三島を支えたのである。三島が山形に来て瓦葺の家が少ないのを見て、土地のものは雪下ろしの時に割れたり、凍害で欠けたりするので茅葺きや木羽葺が多く防火上好ましくないと考え、県建築士会の平吹和之会長の実家は祖父の代まで瓦屋を営んでいて、三島がわざわざ工場に訪ねて行き「壊れやすいのは焼き方が悪いのだ」と直々焼き方を指導したとのことである。この三島式焼瓦を、使ってみると丈夫なので官庁、学校を始め民家にも瓦葺が普及するようになった。三島が瓦の焼き方をどこで教わったのか定かでないが、庄内の建物の屋根は全てというほど瓦葺が多く庄内の瓦工場で見聞きしたと推測される。ずいぶんお節介な県令だが昔の役人がいかに積極的に政治指導をやったかがわかる。今日の公務員の消極的態度と比べると天地の差がある。桜桃の苗木は三島が持ってきたがこれは貯蔵運搬に耐えないので三島はこれだけは失敗だと思っていたそうだが、明治34年4月11日奥羽本線が福島―山形間が開通し、林檎や葡萄は病害虫ため生育しなかったが、桜桃だけは残り明治40年頃から冷蔵貨車で東京方面に2㎏詰めの木箱に一粒一粒を手詰めにして大量に出荷できるようになり、新鮮な色と芳醇な風味が都会人の嗜好に適して政界、財界などへの贈答品としてもてはやされ、明治末から大正にかけて山形の一大特産品になった。そして今日の山形桜桃の隆盛となったである。 戊辰戦争で山形は朝敵・賊軍の汚名を着せられ近代における後進性を決定づけたが、三島によって文明開化の諸政策を推し進め大建設事業の基地として山形に多くの物資の集散、工事関係人員の集中・交流があって漸く商業都市の崩壊から脱却することができた。今の山形県の発展があるのは「鬼県令」と言われながらも7年間山形県令として辣腕をふるって多くの実績を残してくれたお蔭であり山形県民の大恩人といっても過言ではない。明治15年7月12日福島県令で転出し翌年には栃木県令を兼任した。山形県民ほど福島・栃木県民は従順ではなく独断専行や言論弾圧に対して住民の反抗から暴動が度々起きている。17年には内務省土木局長を経て18年には警視総監となり、自由民権運動を弾圧したことは有名である。明治20年に爵位の子爵に任ぜられ、翌年の夏に病気になり、警視総監在任中の明治21年10月13日53歳で亡くなった。三島の次の二代目県令の折田平内が県立山形中学校を開校するため千歳園は国分寺(柏山寺)薬師堂の付近に移設され、池や千歳山を模した築山を造って「千歳公園」と命名した。公園内に護国神社があるが、これは明治33年に戊辰の役で亡くなった薩摩藩士20柱と官軍に属して戦死した山形藩士の霊も合祀して「県招魂神社」(千歳の杜)が建てられ、その後山形県関係の日清・日露の戦没者を合祀して昭和14年に「山形県護国神社」と称するようになった。現在、第二次世界大戦までの殉国者4万余柱の英霊が祀られている。なお「千歳公園」は昭和31年都市公園法の施行とともに「薬師公園」と呼び改められた。Page19TitleNameNumber山形の歴史WATANABE michiaki2/2
元のページ