建築士山形 architect of yamagata 2014 No.94
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天長節に開庁式を行った。次に道路建設であるが、栗子、三崎、猿羽根、最上小国、高畠、小国、関山、酒田など21路線の新道に登っている。三島の道路建設は、強権的であったため「鬼県令・土木県令」などという異称が伝えられているが、政府の殖産勧農政策にのっとり農業振興の面で力量を発揮したことも忘れてはならない。着任早々の9月に薩摩出身で友人の北海道開発長官の黒田清隆に依頼して、洋種の林檎、葡萄、洋梨、桜桃(さくらんぼ)、桃などの苗木を東京内藤新宿試験場(現在の新宿御苑)から取り寄せ、香澄町桜小路の植物試験場で試作を開始した。また、明治12年三島は、5万8千坪におよぶ勧業試験場千歳園を造成した。場所は現在の山形東高校(我が母校の正面玄関前のロータリーには「千歳園」と彫られた石碑が立っている)が中心部で三島通り、新築西通り、新築東通り、山形工業高校北の通りに囲まれた広大な地域である。同様の試験場を北村山郡萩袋村(現尾花沢市)など8箇所に開設している。東根に持っていった桜桃から後に佐藤錦の誕生に繋がった。千歳園の中央の公園には池を作り、市民の遊覧散策地としたが、道路と道路の間に桑、茶、三股のほか和洋の果樹、蔬菜などを栽培した。今日、山形地方の特産物として有名な洋梨、桜桃、葡萄、林檎などは、この時栽培されたものであり、この試験場が将来の山形経済にいかに役に立ったか、計り知れず、三島の功績は偉大なものがある。三島の県政方針は次の七点について実施しようとした。(1)道路を開き、運輸の利便を良くし、民力を養い、県民の目を広く外の世界へ開かせること。(2)師範学校などの学校を作り、人材養成に務めること。(3)勧業、なかんずく製糸器械場を設け、博物館を開いて実物による教育を施すこと。(4)済生館などの病院を設立し、県民の健康維持を図るとともに、医学教育を行うこと。(5)警察署とその分署を設置し、治安機構を確立し、言論統制を図ること。(6)河川を改修し、これを運輸の動脈として利用促進すること。(7)酒田港の改修を行うこと。最後の(7)だけは三島の時に実現しなかったが、(1)~(6) 明治4年7月の廃藩置県により、米沢県、上山県、山形県、天童県、新庄県、大泉県、松嶺県の7県が始めで、次に置賜県、山形県、鶴岡県、酒田県の四つに統合された。鹿児島出身の三島通庸(みちつね)が西南の役の3年前の明治7年12月に酒田県令に就任したのは、同郷の大久保利通内務卿の勧告よるが、前県令は、佐幕派の旧酒井藩の家老松平親懐で、松平は西郷南州と親交が有り、藩内には西郷の知遇に感激しているものが多く、不平分子は信望ある松平を擁して事を挙げようとする機運が強かった。このことを心配した大久保が三島を遣わしたのである。また明治7年6月から起こったワッパ事件(曲ワッパ一杯ずつ年貢の還付金を返すということから付いた騒動で結局、農民側が勝訴している)の後始末のために酒田に乗り込んだのである。明治8年酒田県が鶴岡県に統合したので鶴岡県令になり明治9年8月置賜県、鶴岡県が山形県に統合してここにはじめて統合山形県の初代県令となった三島は、旧水野藩邸を使用している県庁舎では手狭になったので新庁舎を万日河原に新築することを決め、工事費の一部は市民からの寄付を強制した。当時山形市第一の富豪と言われた十日町の近江商人丸長こと長谷川吉郎治に対して1000円の寄付割当を行った。当時の1円は今の価値に直すと2万円になり、1000円は2000万円に相当する。さすがの丸長も応じかねていると、夜県庁の役人が丸長方に押しかけてその宅地に「県庁敷地」という棒杙を立ててしまった。丸長も宅地を取られては堪らないので、渋々1000円を寄付したという。当時の長者番付表には東の大関の長谷川吉郎次は持金100万円とあるが日本一の大地主本間光輝は中央の番外に一番大きな字で1千万円と書かれている。文化3年(1806年)の全国長者番付表では三井・鴻池が東西の大関で本間は16位にランクされている。吉郎次は後年、直則の名前で第一回貴族院議員に選出された。結局、三島は875人から10000円余の寄付を集め、約21000の工事費の約半分が民間からの寄付に頼ったのである。明治10年10月疑洋風の県庁が完成し、11月3日の渡邉道明 WATANABE michiaki From山形支部山形の歴史1山形県民の大恩人である初代県令の三島通庸。YYamagata history山形の歴史Page18-19Page18TitleNameNumber山形の歴史1/2WATANABE michiaki
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